今朝ほど、何となく思い立って萬蔵稲荷神社(宮城県白石市)に行ってきました。ここ、好きなんですよね。空気がヒンヤリしていて、平地より涼しく感じました。
だからというわけでもないのですが、かなりスピリチュアルなことを書きます。そういうのが苦手な人は、スルーしてください。
さて、こんなことを書くと、格好悪い気もしますが、先日、妹とちょっとした喧嘩をしました。
事の発端は、ある事柄について、妹から電話を受けたことです。一般的に女性は、相談というよりは、共感したり同調したりして欲しい生き物というか、具体的な解決策を示してもらったりするより、ただ話を聴いてほしい、感情を分かち合いたい、それだけが望み、みたいなことが多いように思います。
それは重々、承知しているつもりなのですが、思考は現実化する、ということを頭で理解するだけでなく、体感としても理解しつつあるわたしとしては、ネガティブな事柄であるほど、それに同調するのは、お互いの為にならないと思うようになりました。それが、現実化してしまいかねないので。
そこで、正直にそのことを伝えて、現実的な解決策を考える必要が今の時点でないのであれば(それが必要な場合もありますけどね)これ以上、この事柄について話すのは止めたいといったものの、理解されず、最後は、喧嘩のようになってしまいました。姉として力になってあげられなかったという不甲斐なさにガッカリしたこともあるかも。
ここからは、かなりスピリチュアルな話になります。思考が現実化するということを真に理解して、想像しながら創造する生き方は、いわゆる目醒めとか悟りといわれる生き方です。そしてその逆、つまり今まで通り、ネガティブ感情とともに生きる生き方は眠りの生き方、という考え方があります。目醒めを目指す生き方は輪廻転生の輪廻から抜ける生き方でもあります。
だからといって、目醒めの生き方の方が優れているわけでも眠りの生き方が劣っているわけでもなく、価値観の違いにすぎません。従来通りの眠りの生き方は、人間ドラマを体感できるという意味ではエキサイティングで楽しいといえるかもしれませんし、そのような生き方を続けたい人もいるかもしれません。
つまり、何が言いたいかというと、異質な価値観を受け入れられないという、わたしのエゴが招いた喧嘩だったと反省したのです。家族だから理解してくれるはずという思い込み、そして相手の期待にこたえることが大切(自己価値を高める)という価値観にとらわれていたこともあるかもしれません。
価値観の違う相手とは、お互いの為に離れていた方が無難だとわたしは思いますが、そうもいかないシチュエーションもある訳で、そのようなときに、折り合いをつけながら付き合う術を身につける必要があると考えさせられました。
最後に、妹の名誉のために補足ですが、活発で可愛い女性です。学生の頃は生徒会や委員長をやったり、大人になってからは育成会の会長を任されたりetc.仕事も子育てもこなして、わたしからみたらスーパーウーマンですよ。